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鉄輪温泉の開祖・一遍上人由来の「温泉山永福寺」の取材  2014年2月5日 [おんせん県おおいた]

 鉄輪温泉の開祖・一遍上人由来の「温泉山永福寺」の取材  2014年2月5日
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鉄輪温泉一遍上人ゆかりの永福寺

 2月5日、全国的に寒冷で震えた朝、別府行を決めたのだが、あまりの寒さに延期しようかと迷いながらJR大分駅に到着した。今日の予定は、JR別府大学駅そばにある「別府市美術館」の鑑賞の後、鉄輪温泉の永福寺取材と鉄輪温泉ホテルでの入浴だった。美術館鑑賞の話は後日にして、鉄輪温泉開祖の話を中心に紹介したい。

 別府市美術館の場所が国道10号線沿いの「上人ヶ浜公園」にあり、昔から鎌倉時代の遊行上人一遍の上陸伝説があったところ。美術館建立の資料を調べる中で、建治2年(1276年)開基と伝えられる鉄輪温泉永福寺に一遍上人の木像が安置され、毎年9月に上人の徳を讃えて“湯あみ祭り”があり、木像を湯あみさせる。又南北朝時代と推定される寺宝「遊行上人絵巻」があるという。
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別府市美術館のある裏は別府湾の「上人ヶ浜公園」
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昔の鉄輪温泉絵図

 美術館から30分も歩くと鉄輪温泉に着く。「鳴門うどん」で最大直径25㎝はあろうかという大丼の牛蒡うどん(365円)で腹ごしらえをする。
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 奈良時代の豊後風土記に出てくる鉄輪温泉は、玖倍理湯の井(くべりゆのい)と呼ばれる激しい自然地獄と、この一帯のどこにも小さな湯気の穴がぶすぶすと熱泥を噴き出していた地獄原だった。現在の鉄輪温泉については、最近温泉入浴巡りで紹介したことがある。
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鉄輪温泉地図
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参考: 11.26(ふろの日)別府・鉄輪温泉を駆け歩く!
http://hide-tabi.blog.so-net.ne.jp/2013-11-27

 いでゆ坂中心部にある温泉山永福寺の本堂のベルを押し、三代目のご住職河野健勝氏にお話を伺った。一遍上人木像は本堂正面左手の御簾に収められ、高さ高さ60㎝、重さ10㎏、寄木造りの木造である。江戸時代から湯あみ祭り(当時は年4回)その後火災により中断し、昭和35年(1960年)に再開、年1回9月21~23日の湯あみに使われた。先代住職が濡れて痛むのを惜しみ、昭和40.年ころ漆塗りにしたのが現在のお姿。実際に湯あみに使われるのはレプリカで造られたもう一体の一遍上人木造がご本尊左手にある。「遊行上人絵巻」は一遍上人没後に描かれた宗俊編(他に聖戒編)全10編中の第7巻目で1307年に書かれた原本はなく転写本、湯あみ祭りの年1回公開されている。本堂天井の花々を描いた極彩色の格子絵を尋ねると、昭和29年に四国の絵描きさんが描いたものだという。
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一遍上人ゆかりの永福寺
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本堂内
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本堂正面左手の御簾に収められている一遍上人木像
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一遍上人の辿ったルート
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天井絵の花々

 一遍上人は、四国伊予国道後に1139年生まれ。幼少のころ松寿丸といった。時宗開祖で建治2年(1276年)九州での遊行賦算(諸国を巡り、人々に念仏の名号札を配ること)で豊後を訪ね、豊後国守護大友頼康(大友三代目)、他阿弥仏真教(後に時宗二祖)らを帰依させた。しばらくの豊後の滞在中に別府鉄輪(地元では地獄)を湯治場として整備した。元寇の戦傷者の治療や一遍上人同行者の病を治すためとも言われる。当時は熱湯噴き上げる鉄輪は、地獄のような様相を示していたのだろう。永福寺は江戸時代末までは、湯滝山松寿寺と称していた。

 一遍上人は、地獄の様相をしていた鉄輪をどのようにして「湯治場」になしえたのかが、興味のあるところだ。大正時代に書かれたらしいという「鉄輪温泉由来絵とき法話」によると、別府野口の里を通られた折り、通りかかった白髪の老人に「この霧の深さは如何なるわけか?」と尋ねると「この後ろに鶴見嶽という高山有。それにかかる霧と山の麓には至る所に地獄あり。特に八丁四面といわれる鉄輪地獄あり。この地獄から噴き上げる蒸気がもつれ合い霧深く庶民が難儀をするのであろう」と鶴見嶽の麓に火の神、鶴見権現様の社を教えていただいた。上人は沐浴後、三、七、二十一日の参籠祈願をされた。満願の碑に先の白髪の老人が夢うつつに現れ、「鉄輪地獄を埋めるには、一切経の経文を一字一石にて称名を唱えながら投げ込めば必ず埋まるであろう」と告げ、姿を消した。上人と一緒につれ立った帰依の僧や村人たちは、いわれた通り長い苦労の末に、大地獄のほとんどを埋め尽くしたが、最後に三間四方の噴気がどうしても止まらない。再度権現様に祈願すると「三間四方の噴気止まらざる所は、経文の功力と温泉の力が合わされ霊場となりたるものなり。湯気の止まらざるところに四方を囲み蒸し風呂を造れ。その中に休みて称名念仏して入湯すれば如何なる業病難病も必ず治るであろう」と申され、姿を消された。こうして仏式の方式で蒸し風呂が造られた。熱湯地獄の様相だった鉄輪温泉に上人たちの試行錯誤の下ようやく「地獄」を「庶民の業病難病を克服する手段」に転換してしまう瞬間であった。

 「鉄輪温泉由来記絵とき法話」に真実性があるのか?別府大学文化財研究所長で「宇佐、国東、速見の歴史」編者でもある飯沼賢司氏によると「一遍上人が出家して最初に来た場所が豊後で、豊後は鎌倉時代から念仏と深くかかわっていた。阿弥陀に救いを求めて、南無阿弥陀仏を唱える信仰は、宗派にかかわらず広く沢山あり、大友氏(三代頼奏の時代)も早くから阿弥陀仏信仰にかかわっていた」「鶴見村は宗教的な“場”を持っていた。天台宗の延暦寺領で山岳信仰とかかわって修験場になっていた。蒸し風呂の話は、かつての温泉は湯に入るのではなく蒸し風呂(サウナ)の古い形態だった。病気は殺生の報いによって起こると考えられていたから、蒸し風呂に入って、南無阿無陀仏の称号を唱えて病気を治すのは宗教的行為だったのです」
時代背景と一遍上人の豊後とのかかわりの時代が重なっているらしいことは理解できた。古文書などで一遍上人が豊後に来たという記録は今のところ残っていないという。今後遺跡の解明や発掘の可能性はないものだろうか。と思いながら、鉄輪温泉の「もと湯の宿 黒田や」で日帰り入浴をして自宅の途に就いた。
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「宇佐、国東、速見の歴史」飯沼賢司編集DSC02875.JPG
江戸時代から噴気を利用して煮炊きした現代の”地獄釜”
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鉄輪温泉の「もと湯の宿 黒田や」
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黒田やのロビー
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大浴場と半露天風呂

☆第6回豊後街道を歩く 宮路~的石~肥後大津② http://hide-tabi.blog.so-net.ne.jp/2014-01-18
☆高野山麓の天然水「月のしずく」http://www.a-spa.co.jp/onsen-shop/
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☆スペイン「聖地サンティアゴ巡礼」の旅 初日サン・ジャン・ピエ・ド・ポーから
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コメント 3

cocoa051

牛蒡うどん、東京でお目にかかったことないんです。
食べたいです。
by cocoa051 (2014-02-13 06:03) 

PENGUIN

大分は一度も行ったことがないので行って見てみたいです。
牛蒡うどん、美味しそうですね。
by PENGUIN (2014-02-13 17:33) 

暁烏 英(あけがらす ひで)

一遍の踊念仏の文献は多く読んでおりますが、鉄輪温泉には行っていません。勉強になりました。
by 暁烏 英(あけがらす ひで) (2014-02-14 23:37) 

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